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Issue.01
シュテファン・グロヴァッツ×平山ユージ /『 Two Legends, One Route 』

 シュテファン・グロヴァッツと平山ユージ。
1987年の春、日本で初めて出会った2人のクライミング界のレジェンド。

クライミング界に革命を起こしたグロヴァッツ、彼に「動かされた」と語る平山ユージ。2人を繋いだルート・小川山の「NINJA」、クライミングシューズへのこだわり、そして「クライミングカルチャー」と「コンペ」が交錯した時代を生きた2人が、これからのクライミング界を担う世代に伝えたいこと。36年の時を経て、出会いの地・日本で再び2人が語り合う。

シュテファン・グロヴァッツ (Stefan Glowacz)

1965年3月22日生まれ ドイツ出身のクライマー・冒険家
コンペシーンでは20代で当時世界最高と言われた大会「アルコロックマスター」を3度制覇。ロッククライミングでも世界の難壁に挑戦し多くの新ルートを開発。日本では小川山「Ninja(5.14a)」の開拓、「グロヴァッツスラブ(初段)」の課題を残すなどで知られる名クライマー。現在は冒険家として精力的に活動している。

平山ユージ

1969年2月23日東京都生まれ プロフリークライマー
10代の頃から国内トップクライマーとして活躍。世界の舞台でも1998年ワールドカップでは日本人初の総合優勝を達成。2000年、2度目のワールドカップ総合優勝。
アメリカのクライミングの聖地ヨセミテでのサラテルートワンデーフリーや、スペインのホワイトゾンビを成功させ、2008年にはヨセミテのノーズルートスピードアッセント世界記録樹立。2010年にはクライミングジム、Climb Park Base Camp を設立した。


初めての出会いは1987年春の日本、初めての出会い

<お二人は何年振りの再会ですか?>

シュテファン・グロヴァッツ(以下SG):コロナ前の2019年、スペインで会った以来じゃないかな。

平山ユージ(以下YH):そうですね。定期的に顔を合わせたり、連絡は取り合っていましたが、こうしてオフィシャルに語り合うのは初めて。今日はとても楽しみにして来ました。

<お二人の最初の出会いについて教えてください。>

SG:1987年4月だね。まだとても寒かったのを覚えているよ。日本の小川山だったかな?ユージは友達と一緒だった。

YH:あれは城ケ崎でした。あの日は日曜日、僕は学校が休みで、友達と一緒にその1日だけ城ケ崎に行ったんです。そうしたら、なんとシュテファン・グロヴァッツが登っていた!

SG:そうだ。城ケ崎だったね。

YH:当時、僕は17歳、高校3年生でした。
初めて見たシュテファンの登りは、それまでの人生の中でも最大の衝撃でした。まさに予想を遥かに上回る、すごいクライミング。シュテファンは他のクライマーとは比べ物にならないくらい、凄まじい集中力を持っていました。
僕は鮮明に覚えていますが、多分、シュテファンに当時の僕の印象は無いと思いますよ笑

SG:いやいや、もちろん覚えているよ!ユージは若かったけれど、モチベーションに溢れたクライマーだった。若く、野心的で、桁外れた才能の持ち主だった。

YH:確かに若かったですし、モチベーションは凄かったです。なんとかしてシュテファンの一挙手一投足を見て、スキルを盗んでやろうとずっと思っていました。
でも当時、シュテファンは世界的にはまだそれほど有名ではなかったと思います。

SG:87年は正式にプロのクライマーになったばかりだったからね。85年のロックマスターで勝ったけれど、翌86年はまだ普通の仕事もしていた。ユージに初めて会ったのではプロのクライマーとしてのキャリアを始めたばかりの頃だね。

<その時、なにか話はしましたか?>

YH:自分から何か話したかったんですが、シャイで話しかけられなかったと思います。
でも、少しクライミングギアの話をした思い出があります。ほんの少しだけ笑
確か、当時私たちが話をしている写真が雑誌に載りましたよね!

<当時の日本の岩場にはどんな印象を持っていましたか?>

SG:世界中どこも美しいので、それぞれの国のクライミングエリアを比較することは難しいよ。私はいつでもオープンに接しているつもり。どの国の岩場も、それぞれに良さがある。

当時は世界中どこも未開拓の場所が多かったね。日本では小川山もその一つだった。私は小川山が大好きだよ。岩と木々のコントラストが美しい。

小川山での再会。2人が挑んだ「NINJA」

同年夏、その小川山で2人は再会する。
そして2人の関係性を語る上で外せない存在が、当時、日本最難ルートだった小川山の「NINJA」だ。

<1987年SGが4日間かけて初登したルートが「NINJA」。どのようなルートでしたか?>

SG:難しいラインを探していたが小川山ではなかなか見つからなかった。山を散策中に、まっさらな岩を見つけたのが最初の出会い。帰国も迫っていて、ほとんどあきらめていた時に見つけたんだ。
ちょっと触ってみて、いけると思った。すぐに登ってみた。すごく(ホールドが)小さくて難しいルートだったよ。垂直だけどちょっとオーバーハングしている。

あの壁を登るには、フットワークが必要だったんだ。
当時の自分のクライミングスタイルとマッチしたルートだった。

まさに日本の忍者のような動きが必要だから「NINJA」と名付けたんだ。

<その難ルート、なぜ登れたのですか?>

SG:あの時は精神と身体が一体化したね。
帰国まで、あまり時間がなかったこともあって、何かを成し遂げる必要があった。目標が明確だった。
こういうプレッシャーは良い方向に作用するものなんだ。
そして、毎日小川山で登ってトレーニングしていたから、身体も出来上がっていた。

YH:あの時、NINJAを登るたびにシューズのエッジがかけて行くので、毎回新しいクライミングシューズに変えていたと聞きました。

SG:その通りだよ。何足も履き替えたことを覚えている。

ロックス・アラウンド・ザ・ワールド(山と渓谷社)より

<時を同じくして、高校3年生の平山さんも87年8月6日に初めてNINJAに挑みます。
当時のことを振り返ってください。>

HY:高校3年生の夏休み、40日間小川山で過ごす中、1度だけ挑戦しました。何もできなかった。
理解できないほど、異次元の難しさでした。
シュテファンが遥か彼方に行ってしまった気持ちでしたね。30年くらい経験を積まないと、ここには帰ってこられないと思いましたよ笑

SG:8月は暑過ぎるよ。NINJAは寒い時期でないと登れない。

HY:すべてがすごく薄くて、ディテールが細かくて難しいルートだと思いました。
岩にアジャストしたクライミングスタイルが必要とされる特別な課題でした。
だから成功者が少ないのかもしれません。

SG:あの岩に1本しかルートがないのはそれが理由じゃないかな。
あの課題をフラッシュするのはすごく難しいと思う。あの岩はひとつのアートだね。

<それから30年以上の時を経て、平山さんは2019年10月30日にNINJA初完登を果します。>

YH:言葉に表せない喜びでした。
NINJAは若き自分を鼓舞してくれたヒーローが残してくれた特別なルートです。日本のクライマーにとって永遠の存在として、いつまでも当時の物語と共に語り継がれるルートだと思います。シュテファンには感謝です。

Loic Deguen「平山ユージ、小川山でNINJAを登る」

「クライマー」として「コンペティター」として生きた2人

その後、90年代に2人は共にコンペシーンでも活躍。グロヴァッツはアルコロックマスターで3度優勝。平山は98年に日本人初のW杯年間優勝を果たす。岩場とコンペシーン、この二つの関係性について、2人の考えは。

<コンペシーンも盛んになってきた当時のことを振り返ってください。>

SG:とてもハードな時代だったと思うよ。

YH:ヒーローが回りにたくさんいて感動の毎日でした。
ただその環境で登れるだけで幸せでしたよ。

SG:当時は全てが新しくて、コンペはもはや新しい競技だった。
84-85年・・・その2~3年前は、外岩でコンペをしていたが、それでは今後うまくやっていけないと感じる人々が現れて、人工壁でのクライミングコンペが開催された。新しい時代のはじまりだったね。

今の若いクライマーになりたくないよ。プレッシャーがすごいからね。

今のクライマー達は少し型にはめられている感じがするよ。クライミングはもっと自由であってほしい。

YH:僕もあの時代にコンペティターだったことは誇りです。
90年代初頭は、コンペティターであっても常に“クライマー”でいられた。
今はコンペ思考のクライマーが多くなっていると思います。
コンペティターの90%-95%くらいが人工壁思考になっているから、アウトドアの岩場と両方を楽しむ流れをつくりたい。
昔は、コンペで戦ったあとに岩場でも会うことが大半でしたから。やはりコンペと岩場は一対であって欲しいです。

SG:当時はみんなファミリーだったね。

YH:今は当時よりナショナリズムが強いのかもしれません。昔は違う国同士でも関わりを持つことが多く、岩に登ることでよりコミュニティーが広がった。岩場に行ったり、食事を一緒にしたり、そこで学ぶことも多かった。英語もその中で学べました。

SG:当時は良い時代だった、若い世代はどんどん強くなっていた。
フランスにいた時は、若いクライマーたちは巡業していてグループのようだったよ。ユージもその中にいたね。

YH:あの当時は、車で1時間もいけばどこの岩場にも行ける環境でした。
国を超えて、お互いに影響しあいながら切磋琢磨していました。

SG:若いクライマーが先輩クライマーに多くの刺激を与えていたね。
昔は難しいルートが開拓されると、翌年にはみんなこぞってそこに行ったけど、今はいろんなクライマーや難しいルートが世界中に点在しているから、同じようなことは起きない。
私は今のクライマーにジェラシーは感じない。自分は素晴らしい時代にクライマーだったと思うから。自分はベストな時代にクライミング人生を送れていたと思うよ。

クライミングシューズの進化

<それぞれのクライミングシューズのこだわりを教えてください。>

SG:ここ数年でクライミングシューズはとても変わった。昔は選ぶほど種類もなかったんだ。
それに対して今は、インドア用やルートクライミング用、エッジが効くもの。なんでも選べるようになったね。

YH:確かにそうですね。僕はオールドスクールスタイルの靴を今も好んで使っています。
大切なことは、シューズを信頼できるかどうか。シューズを履いて眼を瞑った時に、どう感じるかを重視します。信頼できるシューズを見つけると、なかなか変えないですね。

今のシューズの進化は早いから、正直、機能や構造への理解が追いつかない。
でもフィーリングには満足できるシューズが多いです。

機能面では、僕はいつもトウとヒールカップを重視します。
ソリューションのヒールカップは特に気に入っています。どこでもかけることができる。

SG:私はミッドソールを重視しているよ。ミッドソールが形状維持の役割をしている。
昔はスリングショットもなければ、ミッドソールもなかった。今のシューズは昔のものとは別物。昔は形が崩れてしまったら、すぐに交換しなければいけなかったけど、今は最初の形状が保たれる。
昔のシューズはもっと「痛かった」。でもクライミング時の「痛み」は自分に良く作用していたね笑

<スポーツクライミングはオリンピック競技にもなりました。これからのクライミング界を担う世代に伝えたいことはありますか。>

SG:日本のクライマーはすごく強いよ。
体格的にも日本人はクライミングに向いていると思う。細くて小柄、だけど強い。

YH:追いかけようと思える存在を見つけて欲しいです。僕にとってシュテファンは、BIGインスピレーションでした。もしシュテファンが87年に日本に来ていなかったら、シュテファンと出会えていなかったら、クライミング人生は変わっていたと思う。
僕だけでなく、我々の世代の目標となる人だった。「シュテファンを越える」と紙に書いていましたから。力強さ、繊細さ、すべてがすごかった。日本のクライミングシーンを変えたくらいセンセーショナルな登りだった。
シュテファン・グロヴァッツは、「我々を動かしてくれた存在」なんです。
今の若いクライマーたちにも、そんな目標となる存在を見つけて欲しいですね。

SG:ありがとうユージ。

自分にも目標、ゴールとなる存在がいた。楽しみながらクライミングをすることの大切さを、目標となる存在から教えられた。JOY、楽しむことが大切だよ。次はどの岩場に行って、どう登ろうと考えることもクライミングの楽しみのひとつ。数字や結果にばかり気を取られてはいけない。

YH:そうですね。楽しむ気持ちは原動力になる。

SG:ユージ、次はどこか岩場で会おう。

YH:嬉しいです。ぜひイタリアのアルコあたりでで会いましょう。

対談場所:日本用品(株)ARCO BASE


LA SPORTIVA クライミングシューズ